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東京家庭裁判所 昭和62年(家)2099号 審判

申立人 厚生大臣 ○○○○

事件本人 森本安子 外1名

主文

東京家庭裁判所が昭和38年2月18日に各事件本人に対してした失踪宣告(戦時死亡宣告)をいずれも取り消す。

理由

1  申立人は主文同旨の審判を求め、申立ての実情として、事件本人両名については失踪宣告(戦時死亡宣告)がなされたが、中国に生存していることが明らかであるから同宣告の取消しを求めると述べた。

2  当裁判所の判断

一件記録によれば、次の諸事実が認められる。

(1)  事件本人両名(以下「事件本人ら」という。)については、昭和38年2月18日東京家庭裁判所において失踪宣告(戦時死亡宣告)の審判がなされた。

(2)  事件本人森本安子(以下「安子」という。)及び同三津子(以下「三津子」という。)は、父の同時次郎と母の同久子との間に生れた次女及び三女であり、同胞として、姉の長女同多恵子、兄の長男同一郎(以下「一郎」という。)、妹の四女同洋子がいた。事件本人らは父母らとともに大阪市に居住していた。父時次郎は職人であつたところ、戦時下で仕事が少なくなつたため、満州開拓団に応募し、昭和17年に、長女を除く全家族を連れて大阪昇平開拓団として渡満し、昇平鎮に入植した。

(3)  戦後の昭和20年12月頃、事件本人らは父母らとともに哈爾浜市へ移動し、同市内の○○小学校に他の開拓団員とともに収容されたが、移動の途中で四女が死亡し、収容所内で母、ついで父が死亡し、事件本人らは両親死亡後市内の中国人に預けられた。

(4)  一郎は日本に帰る際、預け先の中国人に事件本人らの引渡しを求めたものの拒否されたためやむなく単独で帰国したが、その前に安子には会うことができた。事件本人らはその後は消息不明の状態が続き、前記の失踪宣告がなされたものである。

(5)  日中国交回復後の昭和49年頃、一郎の許に中国から同人の妹という森本安子名義の帰国を希望する手紙が送られてきたが、同人は当時生活に余裕がなく身元引受けは困難と考え、返信しないでいた。この森本安子という者(以下「安子という者」という。)は黒龍江省哈爾浜市○○区○○○○○○○×号に居住し、中国での姓名を張桂花というが、昭和50年頃大阪○○開拓団の事務局の西田忠夫にも同旨の手紙を寄せ兄一郎への連絡を依頼してきた。

(6)  哈爾浜市居住の安子という者について、開拓団の一員である上事件本人安子と同年齢、同学年で戦後も行動をともにし、昭和56年6月頃帰国するまで哈爾浜市に残留し、安子という者と交際のあつた高江正子及び開拓団の一員で哈爾浜市に残留し同女と交際があり、昭和54年に帰国した吉田圭子はいずれも安子という者は事件本人安子と同一人物という。又、○○○○弁護士にあてた安子という者の手紙を代筆した大島良子(前記高江正子の兄の妻に当たる。)は開拓団の一員で哈爾浜市に残留した者であるが、入植地では事件本人安子の一家と同じ部落に属し親しい関係にあつたと思われる者である。兄一郎も安子という者が事件本人安子と同一人物と考えており、失踪宣告の取消しによる事件本人安子及び事件本人三津子の戸籍復活を容認する意向である。

(7)  安子という者については、哈爾浜市公証処発行の公証書は日本籍とする。

(8)  安子という者が自己の幼少時の生活につき供述する内容は一郎や関係者の供述とほぼ一致する。

(9)  安子という者によれば、同人の妹森本三津子(以下「三津子という者」という。)は遼寧省瀋陽市○○区○○○×段×里×号に居住し、中国での姓名を宗秀玉といい、姉と往来があるという。前記高江正子及び吉田圭子は哈爾浜市在留時に森本三津子と面接した経験はないが、安子という者から妹の話をよく聞かされたと述べる。

以上の事実に記録に現われた一切の事実を合わせ考えると、前記森本安子という者及び森本三津子という者は、それぞれ事件本人森本安子及び事件本人森本三津子と同一人と認めることができる。そうすると、事件本人らは生存していることとなるから、事件本人らに対し先になされた失踪宣告(戦時死亡宣告)を取り消すのが相当である。

よつて、主文のとおり審判する。

(家事審判官 宗方武)

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